朝日新聞朝刊 1999.8.28

  精神病と闘っている若い女性から『クール・ランニング』(1992年)という映画が良かったと薦められ、早速ビデオを借りた。
 カリブ海に浮かぶレゲエで有名な常夏の島ジャマイカから、なんと冬季オリンピックのボブスレー競技に出場しようという、うそのような本当のお話だった。到底不可能だと思われても、トライすることに価値があるのだと教えてくれた。映画が心の栄養剤になるケースだ。
 「人生はお前が見た映画とは違う。人生はもっと困難なものだ」というセリフが登場する映画がある。イタリア映画『ニュー・シネマ・パラダイ...

朝日新聞朝刊 1999.9.4

 行商で全国を回り、家族を養ってきた初老の男性が胃かいようになり、大量に吐血して緊急入院した。内視鏡でかいよう部位からの出血が確認され、大量の輸血を受け、胃の四分の三を切除した。
 仕事に復帰したが、疲れやすく、根気がなくなった。内科を受診したら、輸血後のC型肝炎と診断された。
 イライラし気分もめいる。自分が消えてなくなりそうな心細さを感じ、理由なく涙が出る。眠りは浅く、いやな夢をみる。がんで、もうじき死ぬのではないかと不安になり、台所で包丁を見るのが怖い。食欲もなくなり、体重は三カ月で一〇キロ減った...

朝日新聞朝刊 1999.9.11

  母親を見てもほほ笑まない。目が合わない。物を目で追わない。自閉症という発達障害が提唱されたのは、まだ半世紀ほど前だ。映画『レインマン』(1988年)は自閉症への一般の理解を飛躍的に前進させた。
 トム・クルーズ演ずるクルマの並行輸入業の青年は、父親の遺言状をきっかけに、長い間入院したきりの自閉症の兄がいたことを知る。雨の日には外に出ないと決めているレインマンの兄をダスティン・ホフマンが演じた。
 自閉症について映画では、こう説明される。
 「昔は痴呆症(ちほうしょう)と混同されたが、知覚のインプッ...

朝日新聞朝刊 1999.9.18

 「あの人は切れる」といえば、昔は仕事のできる人のことだった。最近の「キレる」は、平常心が断ち切れて突然、むちゃくちゃをやりだす人のことだ。酒を飲んで「キレ者」になる状態のノンアルコール版とでも言おうか。
   積み木遊びで、塔や家を作ろうと親が一生懸命になりかけたころ、子供が突然すべてを破壊することがある。破壊的、激情的なのは発達途上の幼年期の特質だ。
 少年による銃の乱射、ナイフによる殺傷事件など、日米両国の少年犯罪の過激化が問題になっている。が、少年法「改正」で罰則を大人並みにしたからといって、...

朝日新聞朝刊 1999.9.25

  電車に乗って嫌でも目に入ってくる雑誌の「巨乳」広告にはうんざりする。テレビの深夜番組にも「Fカップ」がよく登場している。一方、モデルのようなスリムな体形を目指すダイエットやエステも盛んに宣伝されている。
 自分の外見が醜いという観念に捕われた患者が時折、精神科を訪れる。
 だれが見てもすごい美人なのに、小さなほくろを形成外科で手術してもらってから、傷跡で一層醜くなったと医者を訴えた女性患者がいた。手術前後の写真を別の外科医に見せても、手術は完ぺきだと言うし、ほくろの跡など素人目にはまったくわからな...

朝日新聞朝刊 1999.10.2

 定年が迫り、経営陣に入る夢も消え、がく然と肩を落とした紳士が深い絶望と抑うつを訴えて外来を訪れた。娘たちが嫁ぎ、夫婦水入らずで温泉めぐりでもしようと考えていた矢先に夫を心筋梗塞(こうそく)で亡くした妻は、パニック発作を伴ううつ状態で「生きる望みをなくした」と涙ながらに訴えた。
 五十代以後は仕事や家庭の責任、社会的、経済的負担がどっとのしかかる。体力の衰えや病気、先人との死別、子供の巣立ちなど、喪失が相次ぎ、自己を保つのが困難になる。中年期の危機はいくら備えても回避は難しい。
 映画『ミルドレッド』...

朝日新聞朝刊 1999.10.9

 数百倍の難関の司法試験を突破し、法曹界入りする人々は、その後も苦労の多い仕事が続く。テレビ映画の名作『ペリー・メイスン』シリーズを見ると、地道な調査と裏付けのための情報収集が判決を左右するかぎであることがよく分かる。弁護士にしても検事にしても、法廷での弁舌能力だけではなく、事実の証明によって裁判官の判決を導き出す。
 何が真実か知るのは難しい。それだけにストレスも並大抵ではない。糖尿病、高血圧、アルコール症などの有病率は他職種に比べて高そうだ。困難な事件や迷宮入りしそうな事件だけを長年担当させられて...

朝日新聞朝刊 1999.10.16

 難関の医学部入学という目標を達成して、すっかり無気力になった青年の心をとらえたのはマージャンだった。それなりの闘争心もわき、知的な駆け引きもある。絶えず脳を刺激し、脳はいつまでも満足しないので、やめられない魅力と魔力がある。
 阿佐田哲也の『麻雀(マージャン)放浪記』にあこがれて、新宿で一人打ちに興じていたら、医学部を退学寸前になっていた。勝った金で車を買ったのが自慢だったが、先に卒業した同級生がまぶしくて仕方がない。「医者としては二流だが、雀士としては一流」などと自己愛を保とうとするが、本業で自...

朝日新聞朝刊 1999.10.23

 世界的著名人で躁うつ病だとみられる人は、三百人を超えて数えられる。しかし、精神病の著名人となると、残念ながらまれだ。
 問わず語りに野球、サッカー、書道、珠算などで活躍した経験を語るときの精神病の人たちの目は輝いている。彼らも病気にかかっていないころには、輝いた人生を歩んでいたのだと思うと、発病はつくづく個人にとって最大の悲劇だったんだなと、重いものがのしかかってくる。
 世界的なピアニスト、デビッド・ヘルフゴットの半生を再現したオーストラリア映画『シャイン』(1996年)は、精神病を扱った作品と...

朝日新聞朝刊 1999.10.30

 はっとするような思いがけない出会いが、精神病院にもある。庭の片隅で四葉のクローバーを十四も見つけたとうれしそうにほほ笑んでいた初老の女性は「意地汚い人々にさんざんだまされ、愛想が尽きた。世の中がもう少しまともになるまで、病院で隠居している」と語ってくれた。
 精神病者は生産、利潤、効率などの価値観の対極にいる。過労死や過労自殺はしないが、敏感だ。炭抗のカナリアではないけれども、人類の未来に警鐘を鳴らしてくれているという見方の人もいる。
 心の平和を求めて、神の道に入った人々も、この女性と同じような...

Please reload

© 2015 by Kayukawa Clinic. Proudly created with Wix.com