朝日新聞朝刊 1999.9.18

 「あの人は切れる」といえば、昔は仕事のできる人のことだった。最近の「キレる」は、平常心が断ち切れて突然、むちゃくちゃをやりだす人のことだ。酒を飲んで「キレ者」になる状態のノンアルコール版とでも言おうか。
   積み木遊びで、塔や家を作ろうと親が一生懸命になりかけたころ、子供が突然すべてを破壊することがある。破壊的、激情的なのは発達途上の幼年期の特質だ。
 少年による銃の乱射、ナイフによる殺傷事件など、日米両国の少年犯罪の過激化が問題になっている。が、少年法「改正」で罰則を大人並みにしたからといって、...

朝日新聞朝刊 1999.9.25

  電車に乗って嫌でも目に入ってくる雑誌の「巨乳」広告にはうんざりする。テレビの深夜番組にも「Fカップ」がよく登場している。一方、モデルのようなスリムな体形を目指すダイエットやエステも盛んに宣伝されている。
 自分の外見が醜いという観念に捕われた患者が時折、精神科を訪れる。
 だれが見てもすごい美人なのに、小さなほくろを形成外科で手術してもらってから、傷跡で一層醜くなったと医者を訴えた女性患者がいた。手術前後の写真を別の外科医に見せても、手術は完ぺきだと言うし、ほくろの跡など素人目にはまったくわからな...

朝日新聞朝刊 1999.10.2

 定年が迫り、経営陣に入る夢も消え、がく然と肩を落とした紳士が深い絶望と抑うつを訴えて外来を訪れた。娘たちが嫁ぎ、夫婦水入らずで温泉めぐりでもしようと考えていた矢先に夫を心筋梗塞(こうそく)で亡くした妻は、パニック発作を伴ううつ状態で「生きる望みをなくした」と涙ながらに訴えた。
 五十代以後は仕事や家庭の責任、社会的、経済的負担がどっとのしかかる。体力の衰えや病気、先人との死別、子供の巣立ちなど、喪失が相次ぎ、自己を保つのが困難になる。中年期の危機はいくら備えても回避は難しい。
 映画『ミルドレッド』...

朝日新聞朝刊 1999.10.9

 数百倍の難関の司法試験を突破し、法曹界入りする人々は、その後も苦労の多い仕事が続く。テレビ映画の名作『ペリー・メイスン』シリーズを見ると、地道な調査と裏付けのための情報収集が判決を左右するかぎであることがよく分かる。弁護士にしても検事にしても、法廷での弁舌能力だけではなく、事実の証明によって裁判官の判決を導き出す。
 何が真実か知るのは難しい。それだけにストレスも並大抵ではない。糖尿病、高血圧、アルコール症などの有病率は他職種に比べて高そうだ。困難な事件や迷宮入りしそうな事件だけを長年担当させられて...

朝日新聞朝刊 1999.10.16

 難関の医学部入学という目標を達成して、すっかり無気力になった青年の心をとらえたのはマージャンだった。それなりの闘争心もわき、知的な駆け引きもある。絶えず脳を刺激し、脳はいつまでも満足しないので、やめられない魅力と魔力がある。
 阿佐田哲也の『麻雀(マージャン)放浪記』にあこがれて、新宿で一人打ちに興じていたら、医学部を退学寸前になっていた。勝った金で車を買ったのが自慢だったが、先に卒業した同級生がまぶしくて仕方がない。「医者としては二流だが、雀士としては一流」などと自己愛を保とうとするが、本業で自...

朝日新聞朝刊 1999.10.23

 世界的著名人で躁うつ病だとみられる人は、三百人を超えて数えられる。しかし、精神病の著名人となると、残念ながらまれだ。
 問わず語りに野球、サッカー、書道、珠算などで活躍した経験を語るときの精神病の人たちの目は輝いている。彼らも病気にかかっていないころには、輝いた人生を歩んでいたのだと思うと、発病はつくづく個人にとって最大の悲劇だったんだなと、重いものがのしかかってくる。
 世界的なピアニスト、デビッド・ヘルフゴットの半生を再現したオーストラリア映画『シャイン』(1996年)は、精神病を扱った作品と...

朝日新聞朝刊 1999.10.30

 はっとするような思いがけない出会いが、精神病院にもある。庭の片隅で四葉のクローバーを十四も見つけたとうれしそうにほほ笑んでいた初老の女性は「意地汚い人々にさんざんだまされ、愛想が尽きた。世の中がもう少しまともになるまで、病院で隠居している」と語ってくれた。
 精神病者は生産、利潤、効率などの価値観の対極にいる。過労死や過労自殺はしないが、敏感だ。炭抗のカナリアではないけれども、人類の未来に警鐘を鳴らしてくれているという見方の人もいる。
 心の平和を求めて、神の道に入った人々も、この女性と同じような...

朝日新聞朝刊 1999.12.18

 1000年代も残り二週間足らず。一年余り続いたこの連載も最終回。さみしいような、一つのけじめになりそうな、奇妙な気分だ。
 この数年の映画には『アルマゲドン』『インディペンデンス・デイ』のように終末に直面した世界を描く流れがあった。ところが今年の話題作『マトリックス』は舞台を一気に二百年先に飛ばせてしまった。コンピューターによる仮想の世界が実は現実で、現実だと思っていた世界が仮想かも知れないという複雑な話だった。窒息しそうな暗い時代に、救世主を探し求める筋立てだった。
 精神科医をしていると、キリ...

朝日新聞朝刊 1999.12.11

 特にナースは、いつも患者さんの身近にいる。医師が助けられることが多い。ナースをはじめとする医療従事者に大きく依存する日本の医療の現状も、冗談では語れない。
 患者さんとの心の触れ合いを最も必要とするはずの精神科だが、患者数に対する医師数は一般科の三分の一でいいと法に定められている。世界に比べて立ち遅れたわが国の精神保健行政の最大の問題点の一つだ。
 ところで、病院で偉そうにしている医師も、実は多くの医療従事者の存在なくしては無力に近い。
 最近はペットに先立たれて精神科を訪れる人も増えている。ペッ...

朝日新聞朝刊 1999.11.27

 敗戦後に進駐軍相手の売春婦になり、精神的にぼろぼろに傷ついて発病した患者は、「夫はマッカーサーだ」と誇らしげに語っていた。もちろん夫というのは事実ではない。たぶん人生の「傷」とする思いが強く、その相手が無名の米軍人ではプライドが許さなかったのだろう。
 世間はどう言おうが、とにかく自分を納得させないと生きていけないときがある。
 売春は最古の商いとも言われる。男性優位社会の象徴でもある。「カネで体を売る」という仕事を「卑しい」とする見方は今も変わらない。援助交際が流行語になり、半ば「了解」されてい...

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