不安・恐怖、薬で抑える時代

朝日新聞朝刊 1999.4.17


 ある大学の先生は、火の用心と戸締まりに関して、右にでるものがいないほど用心深かった。講義中に突然戸締まりが気になり、急いで家に帰って玄関のドアが閉まっているのを確かめたことがある。戻ると、講義の時間はとっくに終わっていた。幼少時に家が全焼し、新築した家に泥棒が入る苦い体験があった。  石橋をたたくのはいいが、渡れなくなると、たとえ高い知性があっても、社会的不適応に陥ってしまう。こうした病理を脅迫という。  昨年話題になった映画『恋愛小説家』は、恋愛小説の大家なのに、実際の恋愛にはからっきしのダメ男をジャック・ニコルソンが演じた。皮肉屋で毒舌、自分勝手で嫌われ者の中年男だ。  不潔恐怖でシャワーを一時間も浴びる。一回使った固形せっけんはすぐに捨てる。戸締まりやスイッチを五回ずつ確認する。レストランにはスプーン、フォーク、ナイフを持参。歩道でも他人と接触しない。舗石の線を踏まない。他人の手が触れるドアなどには手袋をはめて臨む。  几帳面(きちょうめん)できれい好きと言えば聞こえはいいが、実は不潔恐怖や疾病恐怖がある。潜在的には死を恐れているとも言える。  だれしも死を恐れていないわけではない。汚いものに好んで触る人も少ない。しかし、完全癖も高ずると非生産的になる。強迫性障害は不安病の一種だ。こういう自己完結型のほかに、他者に依存して巻き込もうとする型もある。  映画では、ニコルソンがこれではいけない、きちんと恋を実らせようと、薬を飲む決意をする場面があった。十年ほど前から注目されているSSRIという選択的セロトニン再取り込み阻害剤だ。  人間性を失うことなく、脳に働く薬によって、不安や行動を抑えられる時代になってきた。マインドコントロールは怪しげだが、こちらはストレスマネジメントという。二十一世紀の注目分野だ。

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