朝日新聞朝刊 1998.11.14
精神病院では、喧噪(けんそう)と隔絶された静かな時間がゆったりと流れている。街で文化が解体されていくなか、クリスマス会、もちつき、たこ揚げ、ひな祭り、お花見、七夕、運動会、紅葉見物、誕生会などの年間行事が組まれ、俳句や茶道や書道をたしなむ人も多い。
国内には三十六万の精神病床がある。約六割を精神病者が占める。その倍以上が外来通院し、デイケアや作業所などで過ごす。三十年で六倍に増えたとされるうつ病と違い、精神病の発病率はほぼ〇.八五%で一定している。
精神病者は繊細で傷つきやすい。素直で引っ込み思案で、ストレスに対して最も弱い。
オーストラリア映画に『ハーモニー』(1996年)というとても愉快な作品がある。「もっと人生経験を積みたい」と大学を中退した青年が精神病院で演劇を指導する。発表会の出し物はモーツァルトの歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」。
患者は個性にあふれすぎて、なかなか統率がとれない。あげくに自分のいる側の社会の奇妙さを患者に教えられる。イライラしてさじを投げようとするが、その時には世間にすれていない素直さが患者の信頼を集めていて、思いとどまる。劇が仕上がるにつれて不調和が調和に変わっていく。
共同で一つの物を作り上げる喜びを知り、自己の行動が評価されることを通じて患者は自信を回復し、自発性や能動性を取り戻す。『ハーモニー』は、一日も早く社会復帰できるように努める精神病院の活動に、ボランティアが加わる新たな一ページを描いた作品だ。出演者や制作スタッフが紹介された後、おまけの一コマがある。見てのお楽しみだが、「気持ちを高揚させるワーグナーの音楽は精神病院には似合わない」とでもいいたそうな場面だ。よくわかった監督の作品だと感心した。
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