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失われた記憶たどる心の旅

朝日新聞朝刊 1999.5.22


  出張中に自動車事故に遭い、頭部外傷で一ヶ月以上も昏睡(こんすい)が続いた三十代の男性が、半年間懸命なリハビリに励み、ようやく仕事に復帰できた。外傷後のけいれん発作のために抗てんかん薬を服用し、記憶力が低下した状態での仕事は過酷を極めたが、持ち前の粘り強さで、それも克服した。  映画『イングリッシュ・ペイシェント』(1996年)は、第二次大戦中のアフリカ北部の砂漠地帯が舞台だ。歴史家ヘロドトスを愛読する考古学者を演ずるのはレイフ・ファインズ。『シンドラーのリスト』でベランダから無差別にユダヤ人を撃ち殺すナチスの収容所長を演じたあの男優が、今度はドイツのスパイに間違えられる。  主人公は、操縦していた複葉機が砲撃で墜落し、大やけどで顔も焼けただれる。本人がイギリス人である事に執着したことから、「イギリス人の患者」と命名され、イタリアの南部に運ばれる。周囲からは記憶を喪失したとみられている。  従軍看護婦の献身的な介助にこたえるように、友人の妻との不倫を核心とする砂漠での出来事が、回想シーンで次第に明らかにされていく。砂漠の幻想的な映像とのバランスが、詩的に昇華された「渇き」を作り出している。砂漠の熱さを感じさせない。すがすがしいような気持ちになる。ロケ地は現在のチュニジアだったようだ。  数百万人の命を奪った大戦を舞台に、一人の命と人生をこれほど大切にみて、細やかに描いた物語が、かつてあっただろうか。  昨年封切られた『プライベート・ライアン』では、ノルマンディー上陸作戦を舞台に、一人ひとりの命が奪われていく事実が冷徹に描かれた。こういう描き方が、戦争を繰り返してきた人類の数少ない進歩かも知れない。  自動車事故に遭った患者は、それから数ヶ月間の記憶をまだ取り戻していない。その欠落に丁寧に付き合っていくのも、精神科医の仕事だ。

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