仕事と別のよりどころ必要

朝日新聞朝刊 1999.7.17

  常識的な理解の範囲を超える心の働きが、増えているように思えてならない。冬型うつ病は光が、夏型うつ病は温度が原因という大胆な学説を提唱した米国精神保健研究所のトーマス・ウエア博士が十年ぶりに来日し、新しい治療法を巡って話し合う機会があった。趣味の映画に話が移り、コーエン兄弟製作の『ファーゴ』(1996年)が面白いと意見が一致した。  社長の娘婿でもある自動車ディーラーの営業部長は、使い込みが発覚しそうになり、二人組のチンピラに妻の誘拐を依頼する。シナリオは次々に狂い、殺人事件に発展する。舞台は雪に埋もれた米国ノースダコタ洲ファーゴ。実際の事件を題材にしている。  テニスのナブラチロワに似た妊娠八ヶ月の女性署長が捜査に乗り出す。三人が殺された雪の中の現場でも、「私の今の仕事は子どもを産むこと」とばかりに、大きなおなかをかかえて、淡々と事件処理を進める。捜査の途中でも、売れない画家である夫の釣り用にミミズを買いにいく。 昼食も夫と一緒に署で取る。それでも犯罪がずさんなので、容疑者周辺に簡単に行き着く。サスペンスではない。スコットランド民謡を思わせる奇妙な音楽とともに、奇妙な味の映画になっている。  作品の最大の魅力は、全く別世界の人間が事件を通して交差しながらも、違う日常で暮らしているのを描いた点だ。精神病に病んだ大学の同級生の日系男性が、署長になっている姿をテレビで見たからと、筋立てに関係なく登場したりもする。  知識で「分かる」という常識的な心の構えに挑戦しているような映画だった。署長を演じたフランソワ・マクドーマンドは、本作でアカデミー賞主演女優賞を獲得した。  一人の人間の中での脈絡のなさは、しばしば問題にされる。しかし本当に自己を保とうとすれば、この署長のように仕事とは別によりどころを持つべきなのかもしれない。

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