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ダンスでいやす被ばくの苦痛

朝日新聞朝刊 1999.12.4

 長崎で被ばくしてから、長い闘病の人生を続けている男性が、慢性関節リウマチの痛みで眠れないと訴えて精神科を受診した。  「戦時中でしたが、社交ダンスでチャンピオンになったことがあります。被ばく者としていろんな病気を患い、仕事もままならず、ダンスだけが生きがいでしたが、リウマチで関節が痛み、楽しめなくなりまして……。」淡々と語る口調は、ちっとも愚痴っぽくない。ゆうに古希を超えている顔は、痛みを抱えていることなど少しも感じさせない。  軍国主義のあらしが吹き荒れる最中に、社交ダンスに興じていたモダンボーイが、被爆後もダンスをこよなく愛して、痛みと闘いながら生きてきた姿に感動し、「三分診療」とも言われる外来だが、えらく長々と話を聞いた。  思い出したのは1939年のハンブルクを舞台にした映画『スウィング・キッズ』(93年)だった。ナチスが影響力を拡大し、青年たちも次々に「ヒトラー・ユーゲント」と呼ばれるナチス青少年団に入った時代だった。 米国のジャズ音楽にのって踊りまくっていた青年たちの友情が、ナチスへの忠誠を競い合う組織原理のなかで、ずたずたに引き裂かれていく。  ジャズは弾いてもナチスの曲は弾かないと拒否した青年は自殺し、反ナチ活動についての情報収集を拒否して「ハイル・スウィング」と叫んだ青年は収容所へ送られる。親ですらも密告の対象で、みんなが周囲を恐れていた。  元モダンボーイには、抗うつ薬を一錠、寝る前に飲んでもらった。「お陰でよく眠れて、またダンスホールに行ってきました」。二週間後にこう聞かされホッとした。  チェルノブイリの原発事故の後、白血病や甲状せんがんが増えた様子が時々報道される。広島、長崎の被ばく者は、半世紀を超える間ずっと苦しんできた。ほんの小さないやしだが、それがうれしい時もある。

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