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突然のボケ 家族もぼうぜん

朝日新聞朝刊 1999.6.12

 いつもの野良仕事に出かけた初老の主婦は、夕方になって帰り道がわからなくなった。一晩さまよい警察に保護されたが、夫の名前すら忘れていた。側頭葉内側部から始まった病変が頭頂葉まで広がったためだ。物心ついて半世紀余、次々と獲得してきた知恵が根底から崩れ始めた。  「物忘れ外来」を受診し、アルツハイマー病と診断された時の、夫のぼうぜんとした表情が忘れられない。  夫は会社を辞め、看病に専念した。新婚旅行の地を再訪し、日記を付け、フィゾスチグミンとの併用でレシチンを山ほど食べさせ、考えられるケアをすべて行った。が、妻は鏡に映る自分に、他人に向かうように話しかけだした。  年による脳機能低下をはるかに上回る病的なボケは、六十五歳以上の二十人から二十五人に一人を占める。  吉目木晴彦の芥川賞作品「寂寥郊野(せきりょうこうや)」を基にした松井久子監督の『ユキエ』(1997年)は、朝鮮戦争のころに看護婦をしていて米国軍人と結婚し、勘当同然で故郷を離れ、ルイジアナ州バトンルージュで四十年暮らすユキエの物語だ。  二人の息子も自立し、優しい夫と幸せな日々を送っていたある日、ボケが始まる。息子の名前を言えない。コーヒーを入れると言ってミルクを出したり、突然日本語で怒りだしたりする。ふらっと家を出て迷子になる。  夫は入院や施設入所を拒み、ヘルパーの援助も得ながら在宅ケアを続ける。働きに出る夫に、一人で外出すると迷子になるからと「かぎをかけて」と頼むユキエ役の倍賞美津子は好演だった。  現在と未来が失われていく時、情動記憶がよみがえり、故郷への執着が強くなる。映画では故郷の山口県萩市の春とバトンルージュの秋が、美しく、対照的に描かれる。  寂寥たる思いで介護にあたる家族も、倒れないように支えられなくてはいけない。抗痴呆(ちほう)薬の開発も切望される。

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