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神と精神世界、そして世俗考

朝日新聞朝刊 1999.10.30
 はっとするような思いがけない出会いが、精神病院にもある。庭の片隅で四葉のクローバーを十四も見つけたとうれしそうにほほ笑んでいた初老の女性は「意地汚い人々にさんざんだまされ、愛想が尽きた。世の中がもう少しまともになるまで、病院で隠居している」と語ってくれた。  精神病者は生産、利潤、効率などの価値観の対極にいる。過労死や過労自殺はしないが、敏感だ。炭抗のカナリアではないけれども、人類の未来に警鐘を鳴らしてくれているという見方の人もいる。  心の平和を求めて、神の道に入った人々も、この女性と同じような現世離脱と絶対平和を希求しているようだ。  映画『セブン』は、キリスト教の七つの大罪、憤怒、しっと、強欲、どん欲、肉欲、怠慢、大食にかこつけた連続殺人犯を追い詰めていく暗くて怖い作品だった。こういう作品を見ると、欧米では神の存在は大きく意識されていると思える。  かといって、神や教会を神聖視するばかりではない。ハンフリー・ボガートが主演して、その後もロバート・デニーロがリメーク版に主演した『俺(おれ)たちは天使じゃない』では、脱走犯が教会に逃げ込んで、神聖な世界をちゃかす。浮気をしてはざんげを繰り返す男を描いた『殺したいほどアイラブユー』という映画もあった。神や信仰を笑い飛ばす作品に、かえって親しみを感じたりもする。  スウェーデン留学から帰国した労働医学者が開口一番、神の元での平等意識が徹底していると感心していた。弁護士や医者になろうと勉学に励む人は、地位や名誉、高い収入を求めているとねたまれるのではなく、「社会貢献のための勉強、ご苦労さん」とみられているそうだ。  精神世界の高みを極めているようにみえる人々と、世俗に骨の髄までまみれてストレスの大洪水でおぼれそうになっている人々。さして大きな違いはなさそうなのだが。
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